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第7話 心の温度

ผู้เขียน: 菊池まりな
last update วันที่เผยแพร่: 2026-07-24 07:28:56

 朝靄あさもやの中、山道を登りながら、柊は竹籠を抱えていた。

 中には握り飯が三つと、魚の塩焼き、それから昨夜の残りの煮物が入っている。父も母も、柊が早起きして山に散歩に行くと言ったことを特に疑わなかった。退魔師の修行の一環だと思ったのかもしれない。

 番小屋ばんごやの戸を、柊は軽く叩いた。

「朧さん、柊です」

 しばらくして、戸が開いた。

 朧が立っていた。昨夜と同じ着物のまま、髪がほんの少し乱れていた。それ以外は、昨日と変わらない。

「おはようございます」

「ああ」

「眠れましたか」

「昨夜も、わからなかった」

 柊は中に入り、竹籠を小さな卓に置いた。番小屋の中は、思ったより落ち着いていた。持ってきた毛布が端正に畳まれ、替えの着物も几帳面に折りたたまれて隅に置かれている。

「きちんとしているんですね」

「そうか」

「几帳面な人だと思います」

「几帳面という意味がわからない」

 柊は握り飯を広げながら、朧の言葉を反芻した。几帳面の意味がわからない。でも行動は几帳面だ。言葉と感覚が、いつもどこかでずれている。

「丁寧にものを扱う、という意味です。朧さんは、道具でも着物でも、乱暴に扱わないでしょう」

「……そうか」

 朧は卓の前に座り、握り飯を手に取った。昨日より迷いのない動作だった。

「冷めていますが、すみません」

「温かさが残っている」

 一口食べて、朧は静かに咀嚼した。柊も向かいに座り、自分の分を食べる。

 朝の山は静かだった。鳥の声が遠くから届いて、木々が風に揺れる音がする。番小屋の小さな窓から、朝靄に霞む山の稜線が見えた。

「ひとつ聞いてもいいですか」

「答えられるものなら」

「昨夜、眠れなかったとき、何を考えていましたか」

 朧は手を止めた。

 少し間があって、また食べ始めた。

「考える、というのがどういうことかわからない。ただ、いろいろなものが頭の中を通り過ぎた」

「どんなものが」

「月。廃社の夜。お前の声」

 柊は顔を上げた。

「私の、声?」

「名前を付けると言ったときの声だ。朧、と呼ぶときの。頭の中で何度も、繰り返した」

 朧は平然と言った。恥ずかしげもなく、かといって誇るでもなく、ただ事実として。

 柊の方が、耳が熱くなった。

「それは……その、眠れない間の暇つぶしみたいなものですか」

「暇という感覚もわからない。ただ、繰り返すと、何かが静まる気がした」

「静まる」

「胸の奥が、ざわついていた。あの声を思い出すと、それが収まった」

 柊は握り飯を膝に置いた。

 朧の言葉を、ゆっくりと飲み込む。感情の名前を知らない男が、自分の内側で起きていることを、こんなにも丁寧に言葉にする。

 胸の奥が静まる。

 それはきっと、安心という名前だ。

「朧さん」

「なんだ」

「それは、安心という感覚だと思います」

 朧は柊を見た。

「安心」

「誰かのそばにいて、怖くなくなること。緊張がほぐれること。胸が静まること。それを安心と言います」

 朧はしばらく、その言葉を噛みしめるように黙っていた。

「安心」

 もう一度繰り返した。自分のものにしようとするように。

「お前の声で、安心するのか」

「そうみたいですね」

「……そうか」

 朧は窓の外を見た。

 柊も窓の外を見た。朝靄が少しずつ晴れて、山の緑が鮮やかになってきていた。

 ふたりで黙って、それを見た。

 食事を終えて、柊が竹籠を片付けていると、朧が言った。

「柊」

 名前を、呼ばれた。

 いつもは「お前」と言う。「柊」と呼んだのは、これが初めてだった。

 柊は振り返った。

「はい」

「昨日、蒼真という男が言っていた。強くなりたいなら鍛えろ、と」

「……直接そうは言っていないですが、まあそういうことですね」

「俺に教えられることがあるかわからない。だが、お前があやかしと対峙するとき、判断が遅い」

 柊は少し、虚を突かれた。

「判断が遅い、というのは」

「昨夜も、四体目に気づいたとき、体が固まっていた。気配を察知してから式紙を構えるまでに、間があった」

 的確だった。言われれば確かにそうだ。気配に気づいてから、柊は一瞬躊躇する癖があった。自分の判断に自信がないから、もう一度確かめようとする。

「鍛えるというより、慣れの問題だ。毎朝少し、気配の読み方を練習するか」

「……朧さんが、教えてくれるんですか」

「できることとできないことがある。霊力を高めることはできない。だが、感覚を研ぎ澄ます手助けくらいはできるかもしれない」

 柊は朧を見た。

 昨日、任務のことで自分を責めすぎると言った。今日は、練習を提案した。

 感情がわからないと言いながら、この人は。

「……嬉しいです」

「嬉しい?」

「誰かに助けてもらえると思うと、嬉しくなります。それが嬉しいという感覚です」

 朧は少し、考えるように間を置いた。

「俺に、教えるつもりか」

「お互い様です。朧さんに感情の名前を教えて、朧さんに気配の読み方を教えてもらう」

 朧はそれを聞いて、何も言わなかった。

 でも、視線が少しだけ変わった気がした。いつもの無表情の中に、何か微かなものが滲んだ。

 柊はそれに名前をつけようとして、やめた。

 まだ早い、と思った。

 その日の夕方、柊は夕食を届けに番小屋に戻った。

 戸を開けると、朧は窓際に座っていた。膝の上に、何かを置いている。

 近づいてみると、小さな木切れだった。

「それは?」

「拾った。形が面白かった」

 柊は木切れを覗き込んだ。確かに、ちょうど鳥のような形をしていた。偶然そうなった流木のようなもので、翼を広げた鳥に見える。

「かわいいですね」

「かわいい、か」

「小さくて、愛らしいものをかわいいと言います。朧さんはどう感じましたか」

「面白い、と言った」

「面白いと、かわいいは少し違います」

「どう違う」

 柊は少し考えた。

「面白いは、頭で思うことで、かわいいは、胸で感じることです」

「胸で感じる」

「何かを見て、大切にしたくなる気持ち。守りたくなる気持ち。そういうのがかわいいに近いです」

 朧は木切れを見た。

 しばらくして、言った。

「……ならかわいい、かもしれない」

 大切にしたくなった、ということか。

 柊は笑った。朧が感情の言葉を自分で選んだのは、これが初めてだった。教えた言葉をそのまま使うのではなく、自分で考えて、選んだ。

「笑うな」

「笑ってないです」

「笑っている」

「……少しだけ」

 朧は木切れを手の中で転がした。

「これは、何に見える」

「鳥です。翼を広げた鳥」

「そうか」

「朧さんには何に見えましたか」

「最初は、わからなかった。ただ手に取りたくなった」

 手に取りたくなった。

 柊はそれを聞いて、また笑いそうになるのをこらえた。

 感情の名前は知らなくても、朧の体はちゃんと感じている。引き寄せられるものがある。美しいと思うものがある。大切にしたいものがある。

 それは確かに、心の動きだ。

「朧さん」

「なんだ」

「今日、初めて私の名前を呼んでくれましたね」

 朧は少し間を置いた。

「そうだったか」

「気づいていなかったんですか」

「……自然にそうなった」

 柊は夕食の包みを卓に置きながら、小さく笑った。

「嬉しかったです」

 朧は木切れを窓際に置いた。鳥が飛び立つように翼を向けて、そこに飾るように。

「そうか」

 短い返事だった。

 でも今夜の朧の声は、昨日より少しだけ温かく聞こえた。気のせいかもしれない。でも柊の耳には、確かにそう届いた。

 山を下りながら、柊は夕陽の中を歩いた。

 今日、朧は安心という言葉を覚えた。かわいいという言葉を自分で選んだ。そして柊の名前を、自然に呼んだ。

 小さなことだ。

 でも柊にとっては、小さくなかった。

 胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていた。それが何なのか、柊はまだ名前をつけなかった。

 ただ、夕陽が今日はいつもより少しきれいに見えた。

 それだけが、今夜の柊の、正直なところだった。

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